
題材は、社員2,400名の住宅設備メーカーが、設備を売る事業とは別に、住まいのメンテナンスを月額で請け負う事業を立ち上げるという企画です。
主力は給湯器と水回りの設備。全国の工務店を通じて売っています。この事業は、いま順調です。 需要は住宅着工に連動して読めるし、チャネルは数十年かけて作った。利益も出ています。
新しい事業はこうです。設置済みの設備から稼働データを取り、壊れる前に部品を替える月額サービスを売る。 売り切りをやめて、継続して課金する形にする。設置台数が積み上がっている会社ほど有利な事業です。
問題は、この2つが同じ会社の中で共存しないことでした。既存事業の物差しで新事業を測ると、初年度の売上も、投資回収の年数も、品質の検証期間も、全部が不合格になる。逆に新事業の物差しを全社に持ち込むと、主力事業の管理が緩みます。
両利きの経営とは、既存事業を深めること(深化)と、新しい事業を探すこと(探索)を、同じ会社が同時にやる経営です。英語では ambidexterity。片方に寄るとどうなるかも、はっきりしています。探索に寄れば稼ぎ頭が痩せ、深化に寄れば次の柱が無くなる。
そして「では両方やろう」と決めた会社が最初にやることは、だいたい決まっています。探索の専門部隊を作って、既存事業から切り離す。 出島、新規事業開発室、イノベーションラボ。呼び方は違っても、やっていることは同じです。
前置きはさておき、本題に入ります。
今日は、その出島が半年動かず、組織図を一切変えずに動き出すまでの話をしていこうと思います。
① 教科書どおりに、探索組織を切り出す

型に沿ってやります。社長直轄の新規事業開発室を作り、10名を配置しました。
切り離した項目は、こうです。
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評価制度:既存の売上目標から外す(期の売上ノルマを持たない)
決裁 :室長決裁で進められる範囲を広く取る
予算 :主力事業とは別枠で確保する
会議体 :既存の週次営業会議には出席しない
採用 :中途を独自基準で採れる枠を持つ
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切り離す理由も、きちんと説明されています。既存事業の物差しで測れば、新規事業は必ず落ちる。 だから別の物差しで測れる場所に置く。ここまでは、どの教科書にも書いてあるとおりです。
社内報にも載りました。発足時点では、誰もこの設計に反対していません。
② 半年経っても、検証が1本も終わらない

半年後、進捗を確認しました。
有償の検証まで進んだ工務店は、出てきませんでした。 企画書は何本も上がっています。プロトタイプも動いています。ただし、試してくれる相手が現れない。
この事業に必要な材料は、3つでした。
→ 全国のおよそ9,000社の工務店チャネルへの案内
→ 出荷済み設備の設置データ(どこに、いつ、何が入っているか)
→ 修理を担当する技術者の網(現地に行ける人)
3つとも、既存事業の中にあります。そして3つとも、渡ってきませんでした。
返ってきた答えは、どれも「No」ではありません。「今期は人が出せません」「個別に申請してください」「次の期に検討します」。 拒否ではなく、順番が後ろになっているだけです。
そして順番は、半年経っても回ってきませんでした。
③ 既存部門に聞いたら、断る理由が合理的だった

行き詰まったところで、チャネル営業部に理由を確認します。なぜ動いてもらえないのかというと、返ってくる答えは制度の側にありました。
協力しない理由は無い。ただ、「今期の部の目標に載っていない」ので、「優先順位はいちばん最後になる」。載せてもらえれば動く。探索組織を切り出した会社で既存部門に理由を聞くと、だいたいこの形に落ち着くという話をよく聞きます。
その部の目標は2つでした。設備の販売台数と、工務店1社あたりの取引額。 どちらにも、新サービスは1ミリも関係しません。
それどころか、協力すると数字が下がります。
→ 工務店に新サービスを説明すると、担当者の訪問時間が減る
→ 説明の結果として契約が取れても、売上は新規事業室に計上される
→ 新サービスの不具合が出れば、苦情は工務店との関係を持つ営業部に来る
協力すればするほど、自部門の評価は下がる設計になっていました。
サボタージュではありません。制度に忠実なだけです。 そして忠実な人ほど、優先順位を正しく最後に置きます。
④ 分離が切っていたのは、しがらみではなく資産だった

この一件で、出島の設計を見直しました。
切ったつもりだったものは、こうです。既存の評価指標、稟議の速度、品質検証の重さ、社内の力学。どれも「制度」の側にあります。
実際に一緒に切れていたものは、こうでした。工務店チャネル、設置ベースのデータ、サービス網、ブランド、法務と品質保証の知見。こちらは「資産」の側です。
そして、この2つは同じ線の上に乗っています。組織の線を1本引くと、制度と資産が同時に切れます。
→ 制度を切る → 探索が既存の物差しで潰されなくなる → 狙いどおり
→ 資産も切れる → 探索が顧客にもデータにも人にも届かなくなる → 想定外
資産を失った探索ユニットが何になるかというと、資本の薄いスタートアップです。自由はある。顧客もデータも人手もない。
そして、その勝負では社外のスタートアップに勝てません。資金調達の手段も、意思決定の速度も、向こうの方が上だからです。
大企業が新規参入者に対して持っている優位は、資産だけです。 それを自分で切ったら、社内でやる理由が残りません。
⑤ 直してみる — 切るものと、つなぐものを分ける

やり直しは、3ステップでした。
1. 切る項目を、制度だけに限定する。
評価指標、意思決定の速度、人事の枠、予算の科目。ここは切ったままにします。 元の設計で正しかった部分です。
2. つなぐ項目を、名指しで決める。
チャネル、設置データ、サービス網、ブランド、法務・品質。「必要なときに相談する」ではなく、どの資産を、誰から、どれだけ引くかを事前に列挙します。
3. つなぎ方を、目標の行として書く。
これが本丸でした。「協力してください」ではなく、「あなたの部の今期の目標に、この案件が載っている」状態を作る。
そして3つ目は、新規事業室からは絶対に書けません。 他部門の目標を書き換える権限が無いからです。
→ 探索側が頼む → お願い → 優先順位は最後
→ 経営が目標に載せる → 業務 → 優先順位が付く
「両利きの経営には経営トップの関与が必要」と言われるのは、精神論ではありません。 目標の行を書き換える権限が、そこにしか無いからです。
⑥ あとで知った — 元の理論に、最初からそう書いてあった

素朴な反省のつもりでしたが、調べると元の理論に、そのまま書いてありました。
まず、探索と深化という対の概念は、1991年の研究に遡ります。「探索(exploration)とは、探索・変異・リスクテイク・実験・遊び・柔軟性・発見・革新といった言葉で捉えられるものを含む」「深化(exploitation)とは、洗練・選択・生産・効率・選抜・実装・遂行といったものを含む」。
そして、放っておくと組織は深化に寄ります。深化の成果は早く、確実で、測りやすい。探索の成果は遅く、不確実で、測りにくい。 だから資源配分は自然に深化へ流れます。これが成功の罠と呼ばれるものです。
ここまでは、既存部門が動かなかった理由の説明として、そのまま当てはまります。
問題は次でした。両利きの経営を提唱した研究では、成立の条件が複数挙げられていて、そこには「分離」だけでなく「統合」が入っています。
→ 探索と深化の両方を正当化する、共通の戦略的な意図
→ 経営陣が共有する、アイデンティティと価値観
→ 探索ユニットの構造的な分離と、経営トップのレベルでの統合
→ 矛盾する2つの組織を、同時に抱え続ける経営陣の能力
3つ目が、一組の要件として書かれています。 分離と統合は別々の選択肢ではなく、セットで1つ。分離だけを実行したものは、両利きではなく、ただの切り離しです。
さらに、資産についても明記されています。探索ユニットが、既存組織の資産と能力 — ブランド、顧客基盤、製造能力、販売網 — にアクセスできることが、成立の条件として挙げられている。
「出島に自由を与えた」という判断は、要件の半分しか実行していませんでした。
ただし正直に書いておくと、これは経営陣が矛盾を抱え続けられる会社の話です。深化側の部長からは「なぜうちの目標に他部門の案件が載るのか」という反論が必ず出ます。それを引き受ける人が上にいないなら、社内に置かない方が速い。 出資や共創の形で社外に置いた方が、双方にとって健全です。
新しい理屈は、ひとつも要りませんでした。
⑦ 何が変わったか

組織図は変えていません。新規事業開発室は、10名のままです。
変えたのは3点でした。
→ チャネル営業部の期の目標に1行入れた(新サービスの検証先を、月5社紹介する)
→ 探索側の評価指標を、売上から検証を終えた仮説の本数に変えた
→ 経営会議に、深化と探索を並べて置く枠を月1回作った
目標に行が入った次の期から、有償の検証に入る工務店が続けて出てきます。企画書もプロトタイプも、半年前のものをそのまま使っています。 止めていたのは中身ではなかった、ということです。
既存チャネルは、新規事業室が自力で作ろうとすれば数年かかるものです。それが、目標の1行で開きます。
ただし、この直し方には代償があります。
1つ目。目標の行は、無限に足せません。 新サービスの紹介を1行入れれば、その部が元から持っていた目標のどれかが軽くなる。足すのではなく、入れ替えているのだと理解しておかないと、翌期に静かに消えます。
2つ目。紹介される検証先の質は、探索側では選べません。 紹介の本数を目標にした瞬間、本数は満たされます。当たり外れの多い検証先を捌く工数が、そのぶん探索側に乗ります。
3つ目。経営会議に月1回の枠を取れば、深化側の議題が押し出されます。 主力事業の管理に使っていた時間を削っている、という自覚が要ります。
出島は必要でした。切り方が違っただけです。
⑧ 現場で使うなら、この3枚

探索組織を作る前に、この3枚を埋めてください。組織図を描くより先です。
表1:分離の設計(切るもの/つなぐもの)
| 項目 | 切る | つなぐ | 判断の理由 |
|---|---|---|---|
| 売上・利益の目標 | ● | 既存の物差しで測ると探索が潰れる | |
| 意思決定の速度 | ● | 既存の決裁段数では検証が回らない | |
| 人事・採用の枠 | ● | 求める人材の要件が違う | |
| 予算の科目 | ● | 単年度評価だと初年度で止まる | |
| 顧客チャネル | ● | これが社内でやる理由そのもの | |
| 顧客・設置データ | ● | 新規参入者が持てない資産 | |
| サービス・保守網 | ● | 自前で作ると数年かかる | |
| ブランド | ● | 初回接触の成約率が変わる | |
| 法務・品質の知見 | ● | 事故を1回起こすと本体に返る |
上4行と下5行を、同じ線で切らないでください。 ここを1本の線で処理した瞬間に、出島は資本の薄いスタートアップになります。
表2:接続の実装(誰の目標に、何を書くか)
| つなぐ資産 | 持っている部門 | その部門の目標に書く一行 | 誰が書けるか |
|---|---|---|---|
| 顧客チャネル | 営業 | 検証先を月○社紹介する | 経営 |
| 顧客データ | 情報システム | ○月までに参照権限を開放する | 経営 |
| サービス網 | 保守・サービス | 検証案件に月○人日を割く | 経営 |
| ブランド利用 | 広報・宣伝 | 新事業の告知を年○回出す | 経営 |
右端の列が、全部「経営」になります。 これが、両利きの経営に経営トップの関与が要ると言われる理由の実体です。探索側が埋められる欄は、この表にひとつもありません。
そして数字を必ず入れてください。 「協力する」と書いた目標は、達成の判定ができないので、期末に消えます。
表3:そもそも社内に置くべきかの判定
| 確認項目 | 該当する | 該当しない |
|---|---|---|
| 既存資産が、この事業の勝ち筋の中心にあるか | 社内に置く | 社外と組む |
| 経営が、既存部門の目標を書き換える意思があるか | 社内に置く | 社外と組む |
| 探索を、既存と別の物差しで3年見る合意があるか | 社内に置く | 見送る |
| 止める基準を、始める前に決めてあるか | 社内に置く | 先に決める |
上2行が該当しないなら、社内に出島を作らないでください。 資産も渡らず、経営の後ろ盾も無い探索組織は、優秀な人を10名拘束したうえで、2年後に静かに解散します。
⑨ この考え方が効き続ける理由

新規事業がうまくいかないとき、社内で最初に出てくる仮説は、だいたい2つです。
1つは、人が悪いという話。 起業家人材がいない、既存部門が保守的だ、経営の理解が無い。
もう1つは、テーマが悪いという話。 市場が小さい、時期が早い、技術が足りない。
どちらも、目標の行を1行も動かしません。 そして翌年、また同じ場所で止まります。
一方、資産の接続を目標として書いておけば、テーマが変わっても表がそのまま使えます。 つなぐ資産の名前が入れ替わるだけで、構造は同じだからです。
そして、この構造は事業の内容にも技術にも依存しません。設備のサブスクでも、AIを使ったサービスでも、海外展開でも、同じです。 大企業が持っている優位が資産の側にある、という事実は、テーマが変わっても変わりません。
だから両利きの経営の最初の一手は、探索組織の設置ではありません。既存事業が持っている資産を棚卸しして、そのうちどれを、誰の目標に書いて渡すかを決めることです。
組織図は、そのあとで描けば間に合います。
ちなみに、既存部門に理由を聞きに行く動きは、たいてい後回しになります。
最初の月に聞いていれば、空いた数ヶ月は要らなかったはずです。
なぜ後回しになるのかというと、切り離した相手に頼みに行くのが、格好悪く感じられるからです。独立した組織として立ち上げた以上、自力で立ち上げるべきだ、という気分になる。
独立させたのは制度からであって、会社からではないはずなのですが。
以上です。