
学生のころ、友人と旅行のしおりを作ったことがあります。分刻みで組みました。
8時12分の電車に乗り、9時40分に着いて、10時から美術館。A4で3枚ありました。 作っているあいだが、いちばん楽しかったのを覚えています。
初日の朝、その8時12分に乗り遅れました。
そこから先の3枚は、全部使えなくなりました。乗り換えも、入館時刻も、昼食の店も、すべてが最初の1本に乗っている前提で組まれていたからです。
しおりは完璧でした。確かめていなかっただけです。
先に一行だけ置きます。ビジネスモデルキャンバスとは、事業の構造を9つのブロックで1枚に描くツールのことです。顧客、価値、チャネル、収益、コストなどを並べて、全体を一望できるようにします。
題材は、大企業の中で立ち上げる新規事業です。起案して、社内の承認を取り、進めていく。よくある形です。
前置きはさておき、本題に入ります。
今日は、この9マスをきれいに埋めて承認まで通したのに、事業が動かなかった話をしていこうと思います。
① 教科書どおりに、9マスを埋める

教科書どおりに埋めました。
→ 顧客セグメント — 誰に売るか
→ 価値提案 — 何を提供するか
→ チャネル — どう届けるか
→ 顧客との関係 — どう付き合うか
→ 収益の流れ — どう稼ぐか
→ 主要リソース/主要活動/パートナー — 何が要るか
→ コスト構造 — 何にかかるか
埋まりました。 そして、埋まったキャンバスは資料として非常に強いです。1枚で全体が見える。矛盾も無い。抜けも無い。
社内の承認も、通りました。
ここまでは、教科書どおりです。
② そのとおりに進めて、承認は通るのに動かない

ところが、承認が通ったあと、事業は動きませんでした。
止まった理由を聞くと、毎回答えが違います。人が足りない、時期が悪い、他の案件が優先。どれも本当のことです。
ただ、共通していたことがあります。誰も、その事業の何かを疑っていませんでした。
キャンバスに書いてあることは、全部そのとおりだと思われていました。
③ そして、確かめたマスを数えてみる

あるとき、9マスを1つずつ指して「これは確かめましたか」と聞いてみました。
確かめたマスは、0でした。
顧客セグメントは、そう思った人がいた。価値提案は、そう書いた人がいた。収益の流れは、そう計算した人がいた。誰も、外に出て確かめていません。
それでも承認は通っています。
ここに、大企業で新規事業をやるときの最大の壁があります。
「大企業で新規事業をやる上で、最も大きな壁は、説明責任を果たす相手が新規事業の素人ということが多々ある」
素人に対しては、9マスが埋まっていること自体が、根拠として通ります。 埋まっていれば考え抜いたように見える。空欄があると詰められるが、埋まっていると誰も止めない。
④ 原因は「埋まると、決まったように見える」こと

原因を一つに絞ると、これでした。
ビジネスモデルキャンバスは仮説の一覧です。ところが、どれが確かめられているかを持ちません。
9マスのどこにも、「これは確かめた」「これはまだ思っているだけ」を書く場所がありません。
だから、確かめたマスと、思いついただけのマスが、同じ見た目で並びます。
そして人は、並んでいるものを同じ重さで読みます。 私が旅行のしおりで、8時12分だけが実は未確認だったと気づかなかったのと同じです。
外部のコンサルを入れても、ここは変わりませんでした。
「コンサルをアサインするということは、外部の客観的視点を入れる行為です。しかし、スタートアップを突き動かすのは主観です。」
客観を足しても、確かめたことにはなりません。
もう一つ、身も蓋もないことを書きます。
「もしコンサルが事業の勝ち方の虎の巻のようなものを持っているのなら、なぜ私が事業をやらないのかというと、理由はこうです。コンサルの単価がどれだけ高かろうと、事業をIPOできるレベルまでスケールする能力があるのなら、間違いなく自分でやったほうが儲かる」
持ち込まれるのは、合理的なロジックです。それは9マスを埋めるのには最適ですが、確かめる作業とは別物でした。
⑤ 直してみる — 9マスに、2列足す

やったことは3つです。
1. 各マスに「外れたら全部が壊れるか」を書いた。
顧客セグメントが外れたら、他の8マスは全部書き直しになります。コスト構造が外れても、組み替えが効きます。壊れ方の大きさが違うのに、同じ大きさの箱に入っていたのが問題でした。
2. 各マスに「確かめたか」を書いた。
思っているだけなのか、聞いたのか、売ってみたのか。3段階で十分でした。
3. 壊れやすくて確かめていないマスから、順に潰した。
9マス全部を確かめる時間はありません。全部が壊れるマスで、まだ確かめていないもの。 そこだけを見にいきます。
そして、この2列を足した時点で、承認の会議が変わりました。 「埋まっていますね」ではなく、「この行が空いていますね」という会話になったからです。
⑥ あとで知った — 著者自身が、続きを書いていた

素朴な対処のつもりでしたが、調べると同じことは、作った本人が書いていました。
ビジネスモデルキャンバスは、アレックス・オスターワルダーがイヴ・ピニュールの指導のもとで進めた博士研究が土台になっています。ビジネスモデルのオントロジー、つまり事業の構造を要素に分解して記述する方法の研究でした。
そこから2010年に整理されたのが、9つの構成要素です。顧客セグメント、価値提案、チャネル、顧客との関係、収益の流れ、主要リソース、主要活動、パートナー、コスト構造。
面白いのは、書籍化にあたって博士論文をそのまま広げなかったことです。二人は一から研究をやり直し、あらゆる事業に当てはまる9要素の一覧に辿り着くまで素材を集め直しています。
そして、その先があります。
オスターワルダーは後年、デイヴィッド・ブランドと 『Testing Business Ideas』 という本を出しています。副題は「高速に実験するための実務ガイド」です。
そこにこう書かれています。事業のアイデアを検証するには小さな実験を数多くこなす必要があり、その中心には、最も重要な仮説の深い理解と、なぜそれを検証するのかがなければならない。
キャンバスは、検証と対で使う設計でした。
埋めることは、目的ではありません。どこから壊しにいくかを決めるための作業でした。私は9マスを埋めて、対になる半分をまるごと飛ばしていたことになります。
新しい理屈は、ひとつも要りませんでした。
あとで知った — 足りない列が、もう1つあった
2列を足して運用していました。海外の実務書を読むと、抜けている列がもう1つありました。
まず前提の数字です。典型的なビジネスモデルキャンバスには、15件から30件の仮説が入っていると整理されています。全部を試すのは不可能です。だから優先順位が要る、という話になります。
ここまでは足した2列で足ります。問題は、その先でした。
指摘されているのはこれです。多くのチームが、始める前に「失敗とは何か」を決めていない。
決めないまま試すとどうなるか。結果が曖昧なまま出てきて、閾値を誰も先に置いていないので、それを成功と呼びます。 外れたことにならないので、仮説は生き残ります。確かめたことになっているのに、何も確かめていない状態が、ここで生まれます。
つまり、確認欄に日付を書けるようにするだけでは足りません。その日付の横に、何が出たら外れとするかを、試す前に書いておく必要があります。
キャンバスへの批判として整理されているものも、同じ方向を向いています。「記録することを、実験することより重く扱わせてしまう」。 埋める作業が主役になり、壊しにいく作業が従になる。9マスという形式そのものが、そう仕向けます。
そして危険な仮説の定義も、はっきり書かれていました。外れたときに事業全体が崩れるものです。重要なのに試されていない仮説が、案件を殺します。 足した1列目が見ようとしていたのは、まさにこれでした。
⑦ 何が変わったか

会議で見るものが変わりました。
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前:埋まっているか → 埋まっていれば通す
後:壊れやすいマスが確かめられているか → 空いていれば止める
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止められるようになったのが、いちばん大きい変化です。 埋まった9マスは、止める理由を1つも提供しません。
2列を足したあと、承認前に差し戻した企画が3件出ました。差し戻した理由は全部、太字の3行のどれかが「思っているだけ」だったことです。
⑧ 現場で使うなら、この2枚

表1:9マスに足す2列
| ブロック | 外れたら | 確かめ方 | 状態 |
|---|---|---|---|
| 顧客セグメント | 全部壊れる | その人に会って聞く | 思っているだけ/聞いた/売れた |
| 価値提案 | 全部壊れる | 金を払うか試す | 同上 |
| チャネル | 組み替えられる | 1本試す | 同上 |
| 顧客との関係 | 組み替えられる | 運用してみる | 同上 |
| 収益の流れ | 全部壊れる | 請求してみる | 同上 |
| 主要リソース/活動/パートナー | 代替がある | 見積もる | 同上 |
| コスト構造 | 組み替えられる | 実測する | 同上 |
太字の3行が「思っているだけ」なら、その企画はまだ承認してはいけません。
表2:確かめる順番
| 順 | 選び方 |
|---|---|
| 1 | 外れたら全部壊れる × まだ確かめていない |
| 2 | 外れたら全部壊れる × 聞いただけ |
| 3 | 組み替えられる × 確かめていない |
| — | 全部を確かめようとしない。時間が足りない |
運用では、次の5件に名前を付けて配りました。名前が付くと、会議の中で指差せるようになります。
1件目、「埋まったマスは、まだ何も言っていない」。 埋めた9マスは仮説の一覧です。1件も確かめていない状態と、9件すべて確かめた状態が、紙の上では同じ見た目になります。
2件目、「壊れやすい順に、上から潰す」。 外れたときの被害が大きい順に並べ替えます。2列を足したあと、最初の30日で上から3件だけ潰すと決めました。
3件目、「確かめたとは、外れうる形で試したということ」。 話を聞いて納得された、は確認ではありません。外れる可能性が残る形で試して初めて1件と数えます。
4件目、「9マスの外に、確認日を書く欄を作る」。 日付が空欄のマスは未確認です。会議では、埋まっている文字量ではなく、日付の入っている件数だけを見ます。
5件目、「承認は、埋まった枚数ではなく、潰した本数で出す」。 この1行を入れてから、承認前に差し戻した企画が3件出ました。
この5件は、1枚に印刷して配れる分量に収めています。増やすと、誰も覚えません。
⑨ この考え方が効き続ける理由

フレームワークは、これからも増えます。そして、増えるほどこの問題は強くなります。 どのフレームワークも、埋めると完成したように見えるからです。
→ 枠がある → 埋めたくなる
→ 埋まる → 考え抜いたように見える
→ 承認者が素人 → 見た目で通る
→ 通る → 誰も確かめない
フレームワークは、思考の助けにはなりますが、検証の代わりにはなりません。
そして、ここは正直に書いておきます。私はIPO経験もなく、年商7〜8億円程度の会社しか経営したことがありません。 大きな成功の作法を語れる立場ではない。
ただ、埋まったキャンバスが承認され、そのまま動かずに消えていく光景は、何度も見ました。 そのとき毎回、9マスは完璧に埋まっていました。
2列を足したあとの実測です。承認前に差し戻した企画が3件出ました。差し戻しの理由は全部、太字の3行のどれかが「思っているだけ」だったことです。9マスのうち、確かめられていたのは平均で2件でした。
関連して、PMFが1→10で死ぬ話と、デザイン思考は聞くのではなく観察する話を別に書いています。事業計画が投資ではなく費用に見える話はすでに公開しています。あわせて読むと、同じ判断が別の場所でも効いていることが分かると思います。
この判断を実際の案件で使う場面については、新規事業コンサルとMVP・PoCのページに整理しています。
9マスを埋めるといえば、僕はビジネスモデルキャンバスよりも○×ゲーム派です。…決着がついた試しがないんですが。
今日はちょうど、9マスに○と×をつける話でした。紙の上では決着がつかないところまで、同じでした。
以上です。