市場は、何に値札を付けていたのか。AI時代の人の”市場価値”について。

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先日、少し年下の人と話していたら、「市場価値、上げないとまずいですよね」と、当たり前のように言われました。焦りのにじんだ、いい言葉の使い方でした。市場価値を上げよう、市場価値の高い人材になろう。転職の文脈でも、SNSでも、結婚でも、この言葉を見ない日がありません。

僕は長いあいだ、この言葉が嫌いでした。良い仕事をすれば評価される。能力があれば、値段も上がっていく。だから能力を上げよう、と考えていたわけです。それに対して、市場価値という言葉の使われ方が、極端に自分の価値以上の値付けをしてもらうための文脈で語られる気がして、ちょっとうんざりしていました。この言葉を聞くたびに、市場価値とは、本当にその人の能力のことなのだろうか、と少しだけ引っかかるようになりました。

その日も、うなずいて相槌を打ちましたが、家に帰ってから、やっぱり少し引っかかりました。あの人が上げようとしている「市場価値」とは、そもそも何のことだったんだろう、と。

先に結論を言い切ってしまうと、市場価値とは、能力ではありません。市場がその瞬間につけた価格です。そしてAIが壊しつつあるのは、仕事でも、能力でもなく、その価格の付け方そのものだと思っています。

今日は、そこを話していこうと思います。

①「市場価値」は、能力ではなく価格です

まず、言葉の中身から見ます。

市場価値とは、市場がその時代・その需給の下で、その人につけた価格のことです。能力と価格は似ているので混同されますが、別物です。

わかりやすいのは株価です。株価は、その会社そのものではありません。同じ会社でも、相場が変われば株価は動きます。市場価値も同じです。その人の能力が一ミリも変わらなくても、市場が変われば価格は動きます。

この違いが効いてくるのは、次の一点です。

市場は、能力を直接には見られません。

見えないものには、値段のつけようがありません。あなたがどれだけ優秀かを、市場は直接には測れない。だから市場は、能力そのものではなく、能力の「代わりになるもの」に値段をつけます。

その代わりになるものが、希少性です。

②市場は能力を測れないので、希少性を買っています

市場は、能力ではなく希少性を買います。これは、実例で見るとはっきりします。

2015年前後、「UXデザイナー」という肩書きの市場価値が、急に上がりました。経験がそれほど長くない人にも、それまで考えられなかった額のオファーが届く。転職サイトを開けば、UXという単語を含んだ求人がずらりと並ぶ。DXコンサルタントも、まったく同じ動きをしました。

あのとき、企業が急にUXを理解したのでしょうか。違います。単に、足りなかったのです。UXを名乗れる人の数が、それを欲しがる企業の数に追いつかなかった。だから価格が上がった。同じ人の同じ能力でも、2010年なら、あの額はつきませんでした。市場が評価したのは能力ではなく、希少性のほうだったからです。

ここで、もう一段やっかいな問題が出てきます。希少性は、能力よりさらに測りにくいのです。

株式市場には、PERという物差しがあります。この期待は高すぎるのか、安すぎるのか、一応は議論できます。ところが人材市場には、それに当たるものがありません。「この人は1500万円の価値がある」と言われても、本当かどうか、誰にも確かめようがない。

だから市場は、確かめられるもので代用します。会社名。肩書き。経験年数。資格。

これらは、能力そのものではありません。能力を推し量るための手がかり、つまり代理指標です。

採用の面接を思い浮かべると、はっきりします。二人の候補者がいて、片方は有名企業の出身で、肩書きも経歴もきれいに揃っている。もう片方は、実際に作れるものは明らかに上なのに、それをうまく言葉にできない。多くの場合、通るのは前者です。面接官が無能だからではありません。能力そのものは、面接では見えないからです。見えるのは経歴のほうで、人はどうしても、見えるものを判断材料にします。

市場はずっと、この代理指標に値段をつけてきました。それが悪いわけではありません。能力が測れない以上、測れるもので代用するしかなかった。昨日までは、それで足りていたのです。

問題は、その代理指標が、なぜ機能していたのか、です。ここから話が変わります。

③市場は専門性ではなく、「分業」に値札を付けていました

去年から、AIだけでプロダクトを2つ作っていました。約2か月、22万ステップ。設計、レビュー、実装、受け入れ。この工程のそれぞれに、人ではなく担当のAIを置き、一つのイテレーションを何度も回す仕組みを、自分で組みました。

やり方は、あっけないほど単純です。夜、寝る前に、その日やることを一つ渡します。あとは、実装担当のAIがコードを書き、レビュー担当の別のAIがそれを読んで指摘し、設計担当が全体の筋を見て、受け入れ担当が最後に確かめる。この往復が、僕が寝ているあいだに、何十回も回ります。

朝、起きて差分を見ると、昨日より確実に前へ進んでいます。ある朝の差分では、レビュー担当のAIが、実装担当のAIの書いた二重実装を見つけて差し戻していました。同じ処理が二か所に書かれていたのを、片方に寄せろ、と。人間なら、そもそも一晩で二重実装できるほどの量を書けないので、起きにくい種類の事故です。それを、別のAIが淡々と捕まえて、直させていました。僕は、その往復に一度も入っていません。

あとから数えてみたら、コミット279本のうち、254本が、僕ではなくAIとの共著でした。割合にして、9割です。実装の主たる書き手は、もう僕ではありませんでした。

最初は、開発が速くなった、くらいの話だと思っていました。

でも、ある時ふと、この現場に専門職が一人もいないことに気づきます。UXデザイナーがいない。UIデザイナーも、PMも、レビュー担当も、QAもいない。役割の名前がついた席が、どこにもない。それでもプロダクトは、昨日より良くなっている。

そして、これは偶然ではありませんでした。専門職を置かずに回る仕組みを、自分で組んでしまったからです。たまたま席が空いていたのではなく、席そのものを作らずに回した。つまり、分業を外して組み直しても、開発は成立したのです。

そこで、順番が逆だったことに気づきます。AIが専門職を置き換えたのではありません。専門職という分け方のほうが、先に成り立たなくなっていた——正確には、成り立たなくても組めてしまった、のです。

ここで、②の代理指標がなぜ効いていたのか、という問いに戻ります。

分業とは、能力を「読める」形に切り出す評価の技術です。仕事を工程に割り、それぞれに名前をつける。名前がつくと、誰が何をできるかが、外から見えるようになります。市場が肩書きや経歴で能力を値づけできたのは、分業がその能力を、読める単位に切り出してくれていたからです。

つまり、市場は専門性に値札を付けていたのではありません。専門性を読めるようにしていた分業のほうに、値札を付けていたのです。

AIが溶かしているのは、その「読める」の部分です。工程の境目がなくなれば、境目に貼ってあった値札も、一緒に剥がれます。専門職が消えたのではなく、専門職という単位で能力を読む、という前提のほうが消え始めている。ここが、すべての起点です。

④品質の床が上がると、その床の値段は消えます

ここから先が、たぶん本当に起きることです。

AIは、通知表で言うところのCやBやA−を漏れなくAにします。品質の下限が、異常な速さで上がっていきます。ここまではよく語られます。語られないのは、その先です。

下限がAまで上がったら、Aはもう希少ではありません。希少でないものに、市場は値段をつけない。つまり、品質が上がったこと自体が、その品質の価格を消します。上がった床は、そのまま値崩れした床でもあるのです。

では、一番上はどうなるか。SSはAにはなりません。SSのままです。ただ、一年かかっていた仕事が、一週間で終わるようになります。品質は変わらず、供給量だけが百倍になる。

昔は、SSが一人いても供給が足りませんでした。だからSも、Aも、たまにはBも、ぜんぶ必要だった。いまはSSが百倍働けます。市場は、優良なAを生み出す”人”を必要としなくなります。

このとき、正反対に見える二種類の人が、同時に値段を失います。

一人は、市場価値だけを追ってきた人です。代理指標を上手に集めてきた人。肩書きも、経歴も、資格も揃っている。ただ、それらは分業が読める形に整えてくれていたから値段がついていました。読める形が消えれば、集めた指標も一緒に効かなくなります。すぐに、急増中のAIコンサル、AI専門家なんて必要なくなるでしょう。

そして、悲しいことに、もう一人はSSに届かない職人です。たとえば、十年かけて一つの技術だけを磨いてきた人。一つの画面を、誰よりも丁寧に、一ピクセル単位で詰められる。ただ、その丁寧さゆえに、一年に十件しか作れない。隣では、ほとんど同じ品質のものが、AIと組んで千件出てきます。品質で負けたのではありません。供給量で負けた。悔しいことに、供給量もまた、市場の一部だからです。

この二人は、正反対に見えて、負ける理由が同じです。どちらも、一つの決まった位置を守っていると言うことだと思います。

⑤希少性は、消えたのではなく移りました

では、誰が残るのでしょうか。

市場価値が高い人ではありません。職人でもありません。残る人には、一つだけ共通点があります。産業そのものに執着している、という点です。

知り合いに、一人います。数年前に会ったときはUXデザインの会社にいて、次に会ったらいつのまにか製造業の現場に入り込んでいて、この前会ったら、また別の業界の話を、目を輝かせてしていました。「何の専門家なんですか」と聞いても、うまく答えられない人です。でも、その人に頼むと、なぜかものごとが前に進む。

この人たちは、UXデザインも、DXコンサルも愛してはいません。AIも、プログラミングも、そこまで愛していない。

彼らは、産業のほうを見ています。だから昨日までUXをやっていた人が、今日はAIを触り、来月には別の業界の設計図を読んでいる。

一見、専門性がありません。でも、逆です。専門性を、捨てられるのです。守っているものが専門ではないから、いつでも手放せる。

トレンドを追い求めて、市場価値の高い肩書を名刺に書いている人と似ているようで異なります。彼らは、市場価値の高騰などには興味がありません。AI開発も、UXデザインも、目的を成し遂げる手段でしかないので、必要以上に深めないし、体系化もしません。肩書きにもこだわりません。

市場価値を追いかけている人は、自分の価値に興味があり、肩書を手にすることが目的ですが、彼らは、産業に興味があり専門性を手段としてみているのです。

そして、彼らのポジションがちょうど、AIに代替されない場所と重なります。AIは、できることを無限に供給できます。代理指標も、いくらでも量産できる。唯一供給できないのは、産業へ執着する衝動や意志のほうです。それは資格にも肩書きにも変換できません。読める形に切り出せない。だから、値段をつける手がかりが、市場の側にないのです。

意志や執着という、市場がいちばん値づけを苦手とするものだけが、最後まで値崩れしません

希少性は、消えたのではありません。移ったのです。「できること」から、「できることを平気で捨てられること」へ。

AIが壊しているのは、仕事ではありません

だから僕は、AIが仕事を奪う、という言い方をあまり信じていません。

AIが壊しているのは、仕事でも、市場でもありません。評価のほうです。市場は何を見て人を値づけしてきたのか。肩書きか、専門性か、希少性か。その物差しが、いま静かに入れ替わっています。

2か月と22万ステップのあいだに僕が見たのは、新しい技術ではありませんでした。市場が昨日まで値札を付けていたものが、音もなく値崩れしていく、その瞬間でした。

よくある質問(と僕の答え)

Q. 市場価値を上げるにはどうすればいいですか?

僕は「上げる」という発想自体が、これから効きにくくなると思っています。市場価値は能力ではなく価格で、価格は需給で決まります。特定のスキルを磨いて希少性を作っても、AIがその希少性を最速で埋めにきます。上げるべきは特定の能力ではなく、能力をいつでも手放して別の場所へ移れる身軽さのほうだと思います。逆説的ですが、一つの市場価値にしがみつかない人が、いちばん値崩れしにくい。

Q. AIでなくなる仕事は何ですか?

僕は「なくなる仕事」より「値段が下がる仕事」で考えたほうが正確だと思います。仕事そのものは残っても、供給量が百倍になれば価格は崩れます。品質の高い専門職でも、一年に十件しか作れなければ、同じ品質を千件出す側に価格で負けます。消えるのは職種ではなく、その希少性のほうです。だから「この仕事は残るか」ではなく「この仕事の希少性は残るか」で問い直すことをおすすめします。

Q. AIに代替されないために、専門性を高めるべきですか?

逆だと思っています。一つの専門を深めるほど、その位置に固定されます。AIが埋めにくいのは、専門を平気で捨てて別の産業へ入り直せる人のほうです。守るものを、専門にしないこと。 矛盾して聞こえますが、これがいちばん代替されにくい構えだと思います。

余談ですが、

冒頭に出てきた、「市場価値、上げないとまずいですよね」と言っていた方ですが、

あのあと僕は本人に、今日ここに書いたことの半分くらいを、熱く語ってしまいました。市場価値というのは価格であって能力ではなくてね、これから希少性が移動していくんだよ、と。たぶん30分くらい。

ひととおり聞いたあと、その人は真顔でこう言いました。

「……で、結局どうすれば、市場価値って上がるんですか?」

何も答えられませんでした。「産業に執着しろ」とは、さすがに言えません。言ったところで、変な人が一人増えるだけです。僕は知らず知らずのうちに彼にとっての市場価値が値崩れしないように振る舞ってしまいました。

以上です。

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